ハチノスブログ

私による私の為の穴だらけのブログ。人生イージーモードだけど雑魚だから攻略困難。厨二病を拗らせました。

「私の世界」と「他の人の世界」

中学の頃に作った眼鏡はあったのだが、掛けなくても見えるので使ったことがなかった。久々につけてみると、何も見えなかった。

 

 

眼鏡を新しく作った。

 

初めて、「私の見ていた世界はこんなにも曇っていたのか!」と思った。

今まで「普通」だったものが、「普通」ではなくなり、世界がクリアに、鮮明に見えた。

 

例えるなら、「地デジが当たり前になり、鮮明な映像が当たり前で特に何も感じなかったが、久々にアナログ放送の時の映像を見たら(こんな画質だったっけ?!今めっちゃ綺麗やん!クリアやん!)と気づいた」という感覚に似ている。

 

 

眼鏡をかけて見えた世界、を見て、思うことは、目で見える世界が私と私以外の人間と、こうも違うのに、その人の「心」?で見えている世界が誰かと「同じであるわけがない」という事だ。我ながら意味がわからない上に臭くて臭い。

 

私が今まで「普通」だと思っていた「世界」は、視力が1.0の人から見たら曇っていてボヤけていて何も見えないのかもしれない。

私が今まで「普通」だと思っていた「世界」は、視力が0.1の人から見たら鮮明でクリアに見えていたのかもしれない。

 

 

数値で、「これが標準です」と、出されているものは分かりやすい。それ以下なら、私は皆より下だし、それ以上なら、私は皆より上、という事だ。

 

 

小さい頃から病院が嫌だった理由は、私の「辛い」が、みんなにとっては「普通」で、それに自分が気づいていないだけで、お医者さんや看護師さんに「大丈夫ですよ。何ともないです。」と言われるのが怖かったからだ。私の「痛い」が、他の人からしたら「大したことない」かもしれないし、私の「大したことない」が、他の人からしたら「痛い」のかもしれない。

 

この事がひどく怖かった。「痛い」と言うことも「悲しい」と言うことも「嬉しい」と言うことも「辛い」と言うことも怖かった。母は頭が痛くなるとすぐ薬を飲む。が、その「母の頭痛」と「私の頭痛」を比べることも出来ないし、「どちらの方が痛い」と証明することも出来ない。だから、私は頭痛薬を飲むことが怖かった。私の頭痛なんて、他の人からしたら大したことないかもしれない、と思った。今でも薬は飲まない。飲めない。私の頭痛も辛いも苦しいも、他の人からしたら大したことない事なのかもしれない、と思うと、こんな事で薬を飲むなんてことは酷く弱いことに思える。

 

皆が何を基準に、「痛い」「辛い」「悲しい」「苦しい」「痛い」と言っているのかが分からない。

 

 

だが、こうやって文字にしてみると、「分からない」のはマイナスにとれる様なことばかりで、「嬉しい」「楽しい」という感情には、「他人がどう基準にしているのか」ということを差ほど気にしていないんだな、と思えてきた。

 

「嬉しい」と思う感情にも、時々、「他の人はこんな事で嬉しいと思わないのかもしれない。こんな事で嬉しくなる私は、おかしい、あまりいい事では無いんじゃないか。」と思ってしまうことがある。が、「楽しい」にはあまりそういう「他の人は」という思考にならない気がする。

 

私は字を書くのが楽しい。筆で字を書くのが楽しい。「他の人」は、「習字の時間は嫌いだった」「黙って座っているのは退屈だ」「何が楽しいのか意味がわからない」と言う。それでも私は「楽しい」。とても楽しい。その事に、「他の人は楽しいと思わないのに私は楽しいと思うなんておかしい。」とは思わない。私は楽しいからそれでいいんだ、と思う。だって本当に楽しい。

 

 

結局、自分を軸にして生きなきゃいけないんだな、と思う。

私は辛いんだ。私にはこれが辛いんだ。

私には痛いんだ。私にはこれは痛いんだ。

私は悲しいんだ。私はこうされたら悲しいんだ。

私は嬉しいんだ。私はこうされたら嬉しいんだ。

私は楽しいんだ。私はこうすれば楽しいんだ。

 

私の中で誰かと比べて、考えたところで、答えが出るわけでも無い事をただただ考えて悩んだって。答えは出ない。分かるはずがない。考えること悩むことは悪いことでは無いけど、「本当の正解」になんて辿り着けるわけが無い。

 

 

ただやっぱり、私が痛いと思うからって、他の人が「痛い」と感じるとは限らないし、私が痛くないと思うからって、他の人が「痛くない」と感じる訳ではない。

 

「自分がされて嫌なことは他の人にもしない」「自分がされて嬉しいことは他の人にもしてあげましょう」

私はこの言葉が結構嫌いだ。なんかまとめると、「ありがた迷惑」って感じがするから。

 

それでも結局、他人がどうしてもらったらどう思うのか、なんて、本当のところはわからないわけで、「誰かになにかしてあげたい」にも結局は「自分」が基準な訳で。

 

 

なんかでもさ、「類は友を呼ぶ」って言うから、「自分が基準」でも割と良いんじゃないかなって思う。「自己中」とはまた違う気がするけどね。「自分が基準」

(2017/06/26 21:57:05)